・たくさん持っていることと、豊かであることは同じではない
・今あるものに感謝できる心は、大きな力になる
・幸せは、人と比べて決まるのではなく、自分の受け取り方で変わる
むかしむかし、エルサレムの町に、ヒレルというとても賢くてやさしい先生がいました。ヒレルは、むずかしいことをむずかしいまま話すのではなく、子どもでも分かるようにやさしく教えてくれることで、多くの人に親しまれていました。
ある日、町の広場に、立派な服を着た商人がやってきました。商人はたくさんの品物を売っていて、大きな家もあり、召使いもいました。けれども、なぜかいつも不機嫌で、顔には不満そうなしわが寄っていました。
その商人は、朝から市場を歩き回っては、あちこちでため息をついていました。
「となりの店は昨日より客が多い」
「向こうの商人は、もっと大きな荷車を持っている」
「あの家は、うちより立派な門をつけたそうだ」
品物を売っても、ほめられても、商人の顔はちっとも晴れません。店の者たちは、売り上げが悪いわけでもないのに、どうして主人がこんなに不満なのか分からず、首をかしげていました。
その商人はヒレルの前に来ると、少し腹立たしそうに言いました。
「先生、わたしには足りないものが多すぎます。あの人より広い家がない。この人ほど評判もない。となり町の商人ほど金貨もない。どうすれば、わたしは豊かになれるのでしょう」
ヒレルは商人を見て、静かにたずねました。
「では聞きますが、あなたは今日、朝のパンを食べましたか」
「もちろんです」
「雨つゆをしのげる家はありますか」
「ありますとも」
「家族や友だちはいますか」
「まあ……います」
ヒレルはうなずいて言いました。
「それなら、あなたはもう多くの宝を持っていますね」
商人は目を丸くしました。
「そんなもの、当たり前でしょう! わたしがほしいのは、もっとすごいものです」
ヒレルはすぐには言い返しませんでした。しばらく広場を見渡し、井戸へ水を汲みに行く人、焼きたてのパンを運ぶ子、店じまいの準備をする老人たちを見ていました。そして静かに言いました。
「当たり前に見えるものほど、失ってから大きさに気づくことがあります」
けれども商人はまだ首を振ります。
「そんな話では、心は満たされません。わたしはもっと上を目指したいのです」
すると、そのそばで話を聞いていた貧しい水くみの男が、そっと笑いました。男は一日中重い桶を運び、やっと家族の食べる分を稼ぐ暮らしでした。それでも顔は明るく、いつも「ありがとう」と言っていました。
商人はそれを見て、ますます不思議に思いました。
「あの男は、わたしよりずっと持っていないのに、どうしてあんなに穏やかな顔をしているのです?」
ヒレルは答えました。
「それは、持っていないものばかり見ていないからです」
ちょうどそのとき、水くみの男のところへ小さな娘が駆け寄ってきました。男は疲れていたはずなのに、娘の頭をそっとなで、桶を置いて笑いました。その顔には、商人が朝から見せていた不満そうな影はありませんでした。
商人はその様子を見て、少し胸がざわつきました。自分は朝から金貨のことばかり数えていたのに、あの男は、たった今目の前に来た子どもの笑顔をちゃんと受け取っているように見えたからです。
商人は納得できません。そこでヒレルは、小さな実の入った皿を二つ持ってこさせました。一つの皿にはたくさんの実があり、もう一つには少しだけしかありません。
「さあ、この二人にそれぞれ皿を渡してみましょう」
ヒレルは、たくさんの実の皿を、文句ばかり言う若者に渡しました。少ない実の皿を、にこにこした子どもに渡しました。
若者は皿を見るなり言いました。
「こんなの、たったこれだけ?」
子どもは皿を見て言いました。
「わあ、こんなにもらえるの?」
ヒレルは商人を見ました。
「皿の中身だけでは、豊かさは決まらないのです。同じものを見ても、『足りない』と思う人もいれば、『ありがたい』と思う人もいる」
そしてヒレルは、今度は皿を入れ替えました。若者には少ない皿を、子どもには多い皿を渡します。ところが、子どもは多い皿をもらってもやはり笑い、若者は少ない皿をもらうとやはり不満そうな顔をしました。
「ほらね」とヒレルは言いました。「皿の数だけではなく、その人がどんな目で受け取るかが、心の重さを決めるのです」
商人は少しずつ言葉を失っていきました。たしかに自分は、もっと多くを手に入れても、すぐに次の足りなさを探していました。まるで穴のあいた袋に実を入れているように、どれだけあっても満ちた気がしなかったのです。
商人は黙り込みました。自分は、すでに手の中にあるものを数えず、人の持ち物ばかり数えていたことに気づいたのです。
ヒレルは、やさしい声で言いました。
「本当に豊かな人とは、自分の持っているものを喜べる人です。たくさん持つことよりも、受け取った恵みに気づくことの方が、心を満たしてくれます」
その日から商人は、朝起きたらまず、すでに与えられているものを三つ思い出すようにしました。食べ物があること。働けること。家族がいること。すると不思議なことに、前よりも心が落ち着き、人にもやさしくなれたそうです。
最初のうちは、商人にとってそれはむずかしい習慣でした。朝になれば、また「あの人の方が」「もっとあれば」という思いが頭をもたげます。それでも商人は、ヒレルに言われた通り、毎日三つだけ、感謝できることを声に出しました。
「今日はよく眠れた」
「雨が降らず、店先がぬれなかった」
「息子が元気に笑った」
そうしているうちに、商人は少しずつ、人の持ち物より自分の暮らしを見るようになりました。店の者が丁寧に働いてくれること。家に帰れば温かい食事があること。町の人が自分の店へ来てくれること。それらは前からずっとそこにあったのに、商人はちっとも見ていなかったのです。
豊かさは、金貨の数だけで決まるものではありません。今あるものに感謝できる人は、心の中に大きな宝箱を持っているのかもしれません。
この物語は、ユダヤの学びの伝統に伝わる話を、子ども向けにやさしい日本語で再話したものです。
もとになった話
タルムードに伝わる知恵の物語より



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