・腹が立ったとき、すぐ言い返さずに間をおくと見え方が変わることがある
・落ち着いてから話すことは、弱さではなく賢さである
・怒りをそのまま渡さない工夫が、関係を守る
むかしむかし、小さな庭のある家に、兄弟が住んでいました。兄のエリシャと、弟のミカです。二人は仲のよい日も多いのですが、どちらも気が強く、ときどき小さなことで言い合いになりました。
ある暑い昼下がり、二人は庭のいちじくの木の下で、父さんの木箱を使って遊んでいました。その木箱は古いけれど丈夫で、ふたをひっくり返すと机のようにも使える便利な箱です。二人ともその箱を自分のほうへ引きたくて、とうとう同時に持ち上げてしまいました。
すると木箱はぐらりと傾き、中に入っていた木のこまや石の駒が、ばらばらと地面に散ってしまいました。
「兄ちゃんのせいだ!」
「そっちが強く引っぱったからだろ!」
二人の声は、みるみる大きくなります。顔も赤くなり、手までぎゅっと握られていました。
そのとき、台所から祖母が顔を出しました。祖母は二人を見て、叱るかわりに、土間の水差しを持ってきました。
「まず、水を一口ずつ飲みなさい」
二人は不満そうでした。
「今そんなことしてる場合じゃない」
「ぼくは悪くないもん」
祖母は静かに言いました。
「だからこそです。熱い鍋を素手でつかまないように、熱い言葉もそのまま口に出さないほうがよいことがあるのです」
エリシャもミカも、しぶしぶ水を飲みました。冷たい水がのどを通ると、さっきより少しだけ息が整いました。
祖母は続けます。
「今から、相手の悪いところを言うのではなく、自分が何をしたかだけ言いなさい」
先に話したのは兄のエリシャでした。
「ぼくは、早く箱を取りたくて、強く引っぱった」
次にミカが言いました。
「ぼくも、放したくなくて力を入れた」
祖母はうなずきました。
「ほら、二人とも『相手が悪い』より先に、自分の手が何をしたか分かったでしょう」
二人は黙りました。さっきまで相手の顔しか見えていなかったのに、今は自分の手の動きまで思い出せるようになっていたのです。
そのあと三人で散らばったこまを拾いました。拾い終わるころには、怒りの火はずいぶん小さくなっていました。
祖母は木箱のふたを閉めながら言いました。
「怒ることが悪いのではありません。怒ったまま相手へ渡してしまうのが危ないのです。水を一口飲むだけでも、怒りは少し手の中へ戻せます」
その言葉を聞いて、ミカがぽつりと言いました。
「さっき、兄ちゃんにひどいこと言いそうだった」
エリシャも小さくうなずきました。
「ぼくも」
その日の夕方、父さんが帰ってきて木箱の話を聞くと、笑って言いました。
「箱がこわれなくてよかった。でも、それよりよかったのは、二人のことばがこわれたままにならなかったことだな」
それから兄弟は、けんかになりそうなとき、「水を一口」が合図になりました。実際に水を飲む日もあれば、ただその言葉を聞くだけで、はっとする日もあります。言い返す前に一度息を入れなおす。その小さな間が、前よりずっと大きな役目を果たしたのです。
ある雨の日、二人はまた道具の取り合いになりました。前のように声が高くなりかけたそのとき、エリシャが自分から言いました。
「ちょっと待って。水を一口」
ミカは最初むっとしましたが、やがて笑って台所へ向かいました。二人とも、今すぐ言い返したい気持ちがあるからこそ、今すぐ言わないほうがよいと分かってきたのです。
祖母はその様子を見て、母さんにそっと言いました。
「人は、怒らなくなるのではなく、怒りの持ち方を覚えていくのですね」
母さんも静かにうなずきました。
兄弟はそれからも、まったくけんかをしなくなったわけではありません。でも、前よりずっと早く戻ってこられるようになりました。怒りの川へそのまま飛びこむのではなく、岸で一口水を飲んでから渡るようになったからです。
ある夜、ミカは布団の中でつぶやきました。
「兄ちゃん、水を飲むだけで、どうしてあんなに違うんだろう」
エリシャはしばらく考えて答えました。
「たぶん、口より先に心が少し落ち着くんだよ」
その返事を聞いて、ミカは安心して眠りにつきました。
怒りは、悪いものだから消してしまうのではなく、上手に持ちなおすことができるのかもしれません。ことばの前に水を一口。その小さな工夫が、熱くなった心を人に渡さないための、やさしくて賢い知恵だったのです。
それから家の食卓には、小さな木の札が一枚置かれるようになりました。
「熱いときほど、まず一口」
けんかのときだけでなく、疲れているときや急いでいるときにも、その札を見るとみんな少しだけ声の出し方を選ぶようになりました。
母さんはその変化を見て言いました。
「水を飲むのは、のどのためだけじゃないのね。家の空気のためでもあるんだわ」
兄弟は顔を見合わせて笑いました。怒りをなくすことはできなくても、そのまま家の中へ投げないようにすることはできると分かったからです。
それからしばらくすると、家の中では「水を一口」が兄弟だけの言葉ではなくなりました。父さんが疲れて帰ったときも、母さんが忙しくてため息をついたときも、祖母がそっと水差しを差し出します。だれかの心が熱くなっているとき、すぐに言い分を重ねる前に、まず一口の冷たさを通すのです。その小さな習慣が、家の中の言葉を前より少しやわらかくしていきました。
ミカはある日、外で友だちとけんかになりかけたとき、自分から井戸のところへ歩いていきました。戻ってきたときには、さっきより落ち着いた声で話せました。家の中で覚えた知恵は、外でもちゃんと役に立ったのです。怒りをなくすのではなく、持ち方を変える。そのやり方を知っているだけで、人は前より少し安心して人と向き合えるのかもしれません。
祖母は夜、水差しのふたを閉めながら言いました。
「熱い気持ちは悪いものじゃありません。ただ、そのまま相手へぶつけると、熱い鍋みたいにやけどをさせてしまうのです」
兄弟はその言葉を聞きながら、自分たちが水を飲んだあとの静かな気持ちを思い出しました。少し冷ましてから渡すだけで、同じ気持ちでも相手に届く形は変えられるのかもしれません。
それから二人は、ただけんかを減らしただけでなく、仲直りまで早くなりました。怒ったまま遠くへ行ってしまわず、少し落ち着いてから戻ってこられるようになったからです。水を一口は、ことばを止める合図であるだけでなく、また向き合うための合図にもなっていったのでした。
1) 祖母は、どうしてすぐ叱るかわりに「水を一口」と言ったのかな?
2) 怒ったときに少し間をおくと、どんなことが変わりそう?
3) あなたなら、気持ちが熱くなったときにどんな合図を使ってみたい?
この物語は、怒りをそのまま口へ乗せずに持ちなおす知恵を伝えるユダヤの教えをもとに、子ども向けに再話したものです。
もとになった話
怒りをおさめる間の大切さを教える、ユダヤの知恵の教えより



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