ことばを一度あたためて 〜パン屋の前の深呼吸〜

ことばを一度あたためて 〜パン屋の前の深呼吸〜 知恵と機転
ことばを一度あたためて 〜パン屋の前の深呼吸〜
【今日のお話のポイント】
・ことばは、出す前に少しあたためると相手に届きやすくなる
・正しさだけでなく、渡し方にも思いやりがいる
・やわらかな返事は、場の空気まで静かに整えることがある

むかしむかし、パン屋の前には朝から忙しい人がたくさん集まっていました。そんな場所では、ことばも急ぎ足になりがちです。ハンナも、その日はついきつい返事をしそうになっていました。

幼なじみのルツが何気なくしたひとことに、ハンナはむっとしたのです。けれどラビは、すぐ答える前に一呼吸だけ置きました。
「焼きたてのパンも、すぐつかむと熱すぎます。ことばも少し似ています」

ハンナは不思議そうな顔をしました。するとラビは言いました。
「思いついたことをそのまま出す前に、少しだけ心の中であたため直すのです。相手の手に渡しても痛くない温度に」

そのあとハンナは、言い返したい気持ちをすぐには口にせず、ぐっと飲みこみました。そして少しだけ言い方を変えてみました。すると同じ内容でも、相手の顔つきがやわらぎました。

店先では、商人同士が短い返事ひとつで機嫌を悪くしたり、仲直りしたりしていました。ハンナは、ことばは小さいようでいて、人の心に着く場所がとても大きいのだと感じました。

夕方、家に帰ったハンナは家族に向かって、いつもよりやわらかな声で返事をしました。すると部屋の空気まで少し静かになりました。やさしいことばは、言った人のまわりにも静けさを残すのです。

ラビは言いました。
「正しいことでも、渡し方が乱暴なら届きにくい。やさしいことばは、真実を弱くするのではなく、届きやすくするのですよ」

その日の帰り道、ハンナは何度も足をゆるめました。パン屋の前で起こったことは、もう終わったはずなのに、胸の中ではまだ続いているようでした。だれかに一度教わっただけで、人の見え方や自分の手の動き方がこんなに変わるのだろうかと、不思議に思ったのです。

家へ向かう途中でも、朝には見過ごしていたものが目に入りました。道のすみに寄せられた桶、ほどけかけたひも、困り顔で立ち止まる小さな子、言いかけてやめた人の口もと。ハンナは、それまでなら景色の一部として流していたものが、今日はみんな「どうしたらよいかな」と自分にたずねてくるように見えました。

その夜、幼なじみのルツといっしょにその話をすると、幼なじみのルツは「ぼくならすぐにはそんなふうにできないかも」と正直に言いました。ハンナも、すぐに何でも上手にできるようになったわけではないと思いました。けれど、前より少しだけ立ち止まれること、前より少しだけ人の気持ちを考えられることが、たしかに自分の中へ入ってきているとも感じていました。

翌朝になると、学びの家や広場では、また別の小さな出来事が起こりました。だれかが急ぎ、だれかが迷い、だれかが少し失敗します。けれどハンナは、前の日のことを思い出しながら、今度は自分からひとつ先に動いてみました。大きなことではなくても、昨日教わった 正しさを乱暴に投げず、届く温度で話すこと という知恵を、その場で試してみたかったのです。

最初は、うまくいかないところもありました。言葉を選びすぎて黙りこんでしまったり、気をつかいすぎて一歩が遅れたりもしました。それでもラビは笑って言いました。
「まっすぐできる人も、最初からまっすぐだったわけではありません。よいことは、昨日より少しよくしようとするところから育ちます」

ハンナはその言葉を聞いてほっとしました。知恵を学ぶというのは、一度で完璧な人になることではなく、次の場面で少しだけましな選び方ができるようになることなのだと分かったからです。そう思うと、失敗した日のことまで無駄ではなく見えてきました。

数日たつと、幼なじみのルツのほうからも変化が見えました。ハンナが前にしたことばや行いを覚えていて、似た場面でまねしようとしたのです。大きな教えは立派な言葉だけで広がるのではなく、目の前で見た小さな手本からも広がっていくのだと、ハンナはそのとき気づきました。

ラビは子どもたちを見渡して、あらためてこう話しました。
「知恵は、聞いて終わるものではありません。台所でも、道ばたでも、友だちとのあいだでも、何度も使ってはじめて自分のものになります。そして自分のものになった知恵は、こんどはとなりの人を助ける灯りになります」

ハンナはその晩、眠る前にその日あったことを思い返しました。今日は少しできたこと、できなかったこと、次はもう少しよくしたいこと。そんなふうに一日を見直すと、教えは遠い話ではなく、明日の自分へ手渡す道具のように思えました。小さな道具でも、毎日使えば、心の中でたしかな形になっていくのです。

朝になるたびに、ハンナは前より少しだけ早く気づこうとしました。だれかの顔つき、部屋の乱れ、言葉の強さ、待っている人の気持ち。気づけることが増えるほど、教えは増えるのではなく、暮らしの中へ静かにしみこんでいくのだと分かってきました。学んだことは本のページに残るだけでなく、その日のふるまいにも残るのです。

それからしばらくして、パン屋の前では前より少しやわらかな場面が増えました。だれかが先に聞くようになり、先に分けるようになり、先に整えるようになり、先に謝るようにもなりました。ひとりの変化は小さくても、暮らしの中へ置かれると、まわりの空気まで少しずつ変えていくのでした。ハンナはその様子を見て、善いことは目立たなくても、ちゃんと次の人へ渡っていくのだと感じました。

子どもへの問いかけ(いっしょに考えてみよう)
1) このお話の人は、どんなときに気持ちを変えられたのかな?
2) あなたなら、同じ場面でどんなことばや行動を選ぶかな?
3) 今日のくらしの中で、ひとつだけまねしてみたいことはあるかな?
このお話について
この物語は、きついことばを急いで出さず、やさしく伝える知恵を伝えるユダヤの教えをもとに、子ども向けに再話したものです。

もとになった話
ことばの温度に心を配ることを勧める、ユダヤの知恵の教えより

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