・会う前の人にも親切を用意しておく心が、ほんとうのもてなしになること
・目立たない手間や選び方にも、その人の心の向きが表れること
・善い行いは大きなことより、毎日の小さな場面で育つこと
むかしむかし、町はずれの門では、朝や夕方になると人々の小さな仕事が静かに重なっていました。だれかは水を運び、だれかは道具をしまい、だれかは家へ帰る前にもう一つだけ手を動かしていました。ミナもその中の一人でしたが、その日はいつもより心が急いでいて、まだ来るか分からない旅人のために門を開けて待つ意味が分からないことで頭がいっぱいになっていました。
ミナには、早く終わらせたい気持ちにも、それなりの理由がありました。遊びの約束があったり、家で待っている人がいたり、もう十分がんばったと思っていたりしたのです。だから、目の前にある 門のかんぬき のことを「これくらいならいいだろう」と軽く済ませたくなるのも、まったく分からないわけではありませんでした。
その様子を見ていたのが、ラビでした。ラビはすぐに「だめです」とは言わず、まずミナの手つきや顔つきをよく見ました。それから静かにたずねました。
「もしそれを受け取るのが君だったら、どうしてほしいですか」
ミナは、すぐには答えられませんでした。自分がする側としてしか考えていなかったからです。けれど問いかけられた瞬間、頭の中で立場が少しだけ入れ替わりました。返される側、待つ側、あとから使う側、声を出せない側。そうして見ると、さっきまで小さく見えていたことが、前より重く見え始めました。
ラビはさらに言いました。
「知恵は、むずかしい本の中だけにあるのではありません。旅人を迎える備え、待つ心、夕暮れ前の町の入口のような、ごくふつうの場面で、心をどちらへ向けるかに表れます」
ちょうどそのとき、まわりでもいくつかのことが起こっていました。遠くでだれかが呼ばれ、別の場所では小さなため息が聞こえ、近くでは手を出してほしいのに言い出せない人が立っていました。ミナは、いつもなら流してしまうそんな気配に、今日はなぜかよく気づきました。ラビの問いで、自分の目が少しだけひらいたのです。
ミナはためらいながらも、まず一つだけ行動を変えてみました。急いで済ませるつもりだったことを、受け取る人の立場でやり直したのです。門のかんぬきを整えたり、順番をゆずったり、声をかける前に考えたり、見えない人のぶんまで少し残したりしました。大きなことではありません。けれど、その小さなやり直しで、まわりの空気が少しやわらかくなるのが分かりました。
近くにいた大人は、驚いたようにミナを見ました。年下の子はほっとした顔をしました。黙っていた人は、ようやく肩の力を抜きました。ミナはその反応を見て、善いことというのは、した本人だけが分かる立派さではなく、相手の顔色が少し静かになるような変化なのかもしれないと思いました。
けれど、そこで話が終わったわけではありません。家へ帰る途中でも、ミナは何度も自分の選び方を思い返しました。さっきの自分は本当にそれでよかったのか。もっと別のやさしさもあったのではないか。考えれば考えるほど、ひとつの教えは、その場だけの答えではなく、次の場面でも試されるものなのだと分かってきました。
その夜、家で出来事を話すと、家族はそれぞれ違うところにうなずきました。ある人は、待たせない誠実さに。ある人は、見えない相手への想像力に。ある人は、目立たない後始末の尊さに。ミナは、自分が学んだことが一人分の教えとして終わらず、聞いた人の暮らしにもつながっていくのを感じました。
翌日、ミナはまた同じような場面に出会いました。今度は昨日より少しだけ早く気づけました。そして、昨日より少しだけ自然に体が動きました。知恵というのは、一度聞いたから持てるものではなく、何度も小さく使ううちに、自分の手の動き方へしみこんでいくものなのです。
ラビは、その様子を見てやさしく笑いました。
「人は、正しいことを一度聞いただけでは変わりきれません。でも、今日ひとつ、明日またひとつと選び直していけば、心の向きはちゃんと育っていきます」
ミナはうなずきました。会う前の人にも親切を用意しておく心が、ほんとうのもてなしになることというのは、立派な言葉として覚えておくより、門のかんぬきを前にしたときに思い出せるほうが本物なのだと、少し分かった気がしたからです。
それからしばらくして、町はずれの門では前より少し穏やかな出来事が増えました。だれかが急がせる前に待ち、言い争う前に見直し、取り分を数える前に分け方を考えるようになりました。大きな変化ではありません。でも、小さな選び方が積もると、暮らしの空気はちゃんと変わります。ミナも、あの日から目の前のふるまいを少しだけていねいに見るようになりました。
そしてときどき、まだ急いでしまう日もありました。うまくできない日もありました。それでもラビの言葉は残っていました。知恵は失敗しない人の印ではなく、失敗しそうなときに向きを直せる人の中で育つ。そう思うと、次にまた迷ったときにも、ミナはあの日の 門のかんぬき を思い出して立ち止まれるのでした。
この物語は、会う前の人にも親切を用意しておく心が、ほんとうのもてなしになることを伝えるユダヤの教えをもとに、子ども向けにやさしい日本語で再話したものです。
もとになった話
タルムードやユダヤの知恵の伝統に伝わる教えより



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