口より先に手を動かす 〜ほどけた綱の結び目〜

口より先に手を動かす 〜ほどけた綱の結び目〜 知恵と機転
口より先に手を動かす 〜ほどけた綱の結び目〜
【今日のお話のポイント】
・善いことは、完璧に大きくするより、できるときに小さく始めるほうが進みやすい
・あとでやろうと思ううちに、やさしい気持ちや機会は遠のくことがある
・今の小さな一歩が、次の善い行いもやりやすくしてくれる

むかしむかし、荷車小屋の前でアロンは、「あとでやろう」と思っていたことをいくつも抱えていました。手伝い、片づけ、声かけ。どれもむずかしいことではありませんが、今でなくてもいいように見えるものばかりでした。

先生はそんなアロンに言いました。
「善いことは、できるときに小さく始めるのが一番です。あとで大きくしようとすると、そのまま遠くへ逃げることがあります」

ちょうどそのとき、ほどけた綱や、掃き残しや、助けを求める目が、すぐ近くにありました。アロンは一瞬迷いました。たった今しなくても、だれかがやるかもしれないからです。

けれど先生の言葉を思い出し、まずひとつだけ手を動かしました。綱を結び、ほうきを取り、倒れかけた物を支えました。すると次の小さな仕事も前より軽く感じられました。

友だちのイツハクが言いました。
「ひとつ始めると、次もやりやすいね」
アロンはうなずきました。善いことは、大きな決心より、最初の小さな一歩で進み始めるのかもしれません。

店じまい前の通りでは、あとにすると暗くなって見えにくくなることもありました。だからこそ、今できることを今しておく意味がありました。

先生は結びました。
「今日できる善いことを今日のうちにする人は、時間にも心にも借りを残しにくいのです」

その日の帰り道、アロンは何度も足をゆるめました。荷車小屋の前で起こったことは、もう終わったはずなのに、胸の中ではまだ続いているようでした。だれかに一度教わっただけで、人の見え方や自分の手の動き方がこんなに変わるのだろうかと、不思議に思ったのです。

家へ向かう途中でも、朝には見過ごしていたものが目に入りました。道のすみに寄せられた桶、ほどけかけたひも、困り顔で立ち止まる小さな子、言いかけてやめた人の口もと。アロンは、それまでなら景色の一部として流していたものが、今日はみんな「どうしたらよいかな」と自分にたずねてくるように見えました。

その夜、友だちのイツハクといっしょにその話をすると、友だちのイツハクは「ぼくならすぐにはそんなふうにできないかも」と正直に言いました。アロンも、すぐに何でも上手にできるようになったわけではないと思いました。けれど、前より少しだけ立ち止まれること、前より少しだけ人の気持ちを考えられることが、たしかに自分の中へ入ってきているとも感じていました。

翌朝になると、学びの家や広場では、また別の小さな出来事が起こりました。だれかが急ぎ、だれかが迷い、だれかが少し失敗します。けれどアロンは、前の日のことを思い出しながら、今度は自分からひとつ先に動いてみました。大きなことではなくても、昨日教わった 今できる善いことを先延ばしせず、小さく始めること という知恵を、その場で試してみたかったのです。

最初は、うまくいかないところもありました。言葉を選びすぎて黙りこんでしまったり、気をつかいすぎて一歩が遅れたりもしました。それでも先生は笑って言いました。
「まっすぐできる人も、最初からまっすぐだったわけではありません。よいことは、昨日より少しよくしようとするところから育ちます」

アロンはその言葉を聞いてほっとしました。知恵を学ぶというのは、一度で完璧な人になることではなく、次の場面で少しだけましな選び方ができるようになることなのだと分かったからです。そう思うと、失敗した日のことまで無駄ではなく見えてきました。

数日たつと、友だちのイツハクのほうからも変化が見えました。アロンが前にしたことばや行いを覚えていて、似た場面でまねしようとしたのです。大きな教えは立派な言葉だけで広がるのではなく、目の前で見た小さな手本からも広がっていくのだと、アロンはそのとき気づきました。

先生は子どもたちを見渡して、あらためてこう話しました。
「知恵は、聞いて終わるものではありません。台所でも、道ばたでも、友だちとのあいだでも、何度も使ってはじめて自分のものになります。そして自分のものになった知恵は、こんどはとなりの人を助ける灯りになります」

アロンはその晩、眠る前にその日あったことを思い返しました。今日は少しできたこと、できなかったこと、次はもう少しよくしたいこと。そんなふうに一日を見直すと、教えは遠い話ではなく、明日の自分へ手渡す道具のように思えました。小さな道具でも、毎日使えば、心の中でたしかな形になっていくのです。

朝になるたびに、アロンは前より少しだけ早く気づこうとしました。だれかの顔つき、部屋の乱れ、言葉の強さ、待っている人の気持ち。気づけることが増えるほど、教えは増えるのではなく、暮らしの中へ静かにしみこんでいくのだと分かってきました。学んだことは本のページに残るだけでなく、その日のふるまいにも残るのです。

それからしばらくして、荷車小屋の前では前より少しやわらかな場面が増えました。だれかが先に聞くようになり、先に分けるようになり、先に整えるようになり、先に謝るようにもなりました。ひとりの変化は小さくても、暮らしの中へ置かれると、まわりの空気まで少しずつ変えていくのでした。アロンはその様子を見て、善いことは目立たなくても、ちゃんと次の人へ渡っていくのだと感じました。

子どもへの問いかけ(いっしょに考えてみよう)
1) このお話の人は、どんなときに気持ちを変えられたのかな?
2) あなたなら、同じ場面でどんなことばや行動を選ぶかな?
3) 今日のくらしの中で、ひとつだけまねしてみたいことはあるかな?
このお話について
この物語は、先延ばしにせず、今できる善いことをつかむ知恵を伝えるユダヤの教えをもとに、子ども向けに再話したものです。

もとになった話
善い行いを思い立ったときに実行することを勧める、ユダヤの知恵の教えより

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