あしたじゃなくて今日 〜ヒレルのひとことと小さな親切〜

あしたじゃなくて今日 〜ヒレルのひとことと小さな親切〜 正義と親切
あしたじゃなくて今日 〜ヒレルのひとことと小さな親切〜
【今日のお話のポイント】
・よいことは、あとでやろうと思うほど、できなくなることがある
・小さな親切でも、今することに大きな意味がある
・時間はいつもたっぷりあるわけではない

むかしむかし、ヒレルという先生のところには、毎日多くの人が相談にやってきました。勉強のこと、家族のこと、仕事のこと。ヒレルはだれの話も、急がせずによく聞いてくれました。

ある日、一人の若者がやってきて言いました。

「先生、よいことをしたい気持ちはあるんです。でも今は忙しいんです。困っている人を助けるのも、勉強を始めるのも、親にやさしくするのも、もう少し落ち着いてからでいいですよね」

その若者は、怠け者というわけではありませんでした。むしろ毎日いろいろなことに追われていました。荷物を運ぶ手伝い、店の仕事、友だちとの約束。けれどそのせいで、「大切なこと」ほどあとまわしにしてしまうくせがついていたのです。

本を読みたい、両親にきちんとお礼を言いたい、困っている人を見たら手を貸したい。そんな思いは何度もありました。けれど、そのたびに「今日は忙しいから」「明日ならもっとちゃんとできるから」と自分に言い聞かせて、心の棚にしまいこんでいたのです。

ヒレルは若者を見て、静かにたずねました。

「では、その『もう少しあと』は、いつ来るのでしょう」

若者は笑って言いました。

「明日とか、来週とか……そのうちです」

そう言いながら、若者自身も少しあいまいな気持ちでした。「そのうち」が、本当はとてもつかまえにくいことばだと、どこかで分かっていたのです。

ヒレルは答えず、若者を連れて市場へ出かけました。広場では、果物売りが熟したいちじくをかごに山ほど積んでいました。

「この実を見てごらんなさい」

ヒレルがそう言うと、若者はうなずきました。

「おいしそうですね」

「でも、食べごろはずっと続くと思いますか?」

「いいえ。今日がおいしくても、あとにしたら傷むかもしれません」

ヒレルはにっこりしました。

「よいことも、少し似ています。やろうと思ったときが、一番あたたかい時なのです」

若者はまだ半分しか納得していませんでした。果物はたしかに傷むけれど、親切や勉強は明日でもできるのではないか、と思っていたからです。

するとそのとき、近くで小さな女の子が重そうな荷物を持って困っていました。若者も気づきましたが、つい心の中で思いました。

「誰かが手伝うだろう」

けれども周りの人たちはみな忙しそうで、だれも立ち止まりません。女の子の手はだんだん震え、今にも荷物を落としそうです。

若者の心の中には、二つの声がありました。

『少しくらい助けなくても大丈夫だろう』
『でも、今ここで困っているのは本当だ』

その二つの声は、ほんの短いあいだに何度も行ったり来たりしました。

ヒレルは若者に何も言わず、ただその様子を見せました。

若者は少しためらいましたが、やがて走っていって荷物を持ちました。

「家まで運ぼうか?」

女の子はほっとした顔でうなずきました。

戻ってきた若者に、ヒレルはたずねました。

「もし『あとで助けよう』と思っていたら、どうなっていたでしょう」

若者は答えました。

「きっと、女の子は先に困ったままでした。ぼくが助けようと思った気持ちも、そのうち消えていたかもしれません」

ヒレルはうなずきました。

「そうです。よい心も、火のようなものです。すぐに守らなければ、小さくなってしまう。だから『今できる善いこと』は、今つかむのがよいのです」

ヒレルは言いました。

「そうです。人の心の中に生まれる『今やろう』という小さな光は、すぐに行動しなければ弱くなってしまうことがあります」

そして、道ばたに落ちていた小さな種を拾い上げました。

「この種も、よい土に埋めるのをあとにしたら、乾いたり、鳥に食べられたりしてしまうかもしれません。善い思いも、それに似ているのです」

その帰り道、若者は道ばたの老人にあいさつをし、家に帰ると母親の手伝いをし、その夜は少しだけ勉強の本も開きました。どれも大きなことではありません。でも、前より心が軽くなった気がしました。

翌朝になると、若者はまた少し迷いました。「今日は疲れているし、また今度でもいいかな」と思ったのです。けれども、ヒレルのことばを思い出し、まず水くみを手伝いました。すると、一つ善いことを始めると、次の善いことも前よりやりやすくなるのが分かりました。

小さな親切は、小さなまま消えるとは限りません。ひとつの行いが、その日一日の心を整え、そのあとに続く行いまで変えていくことがあるのです。

若者は、そのとき初めて分かりました。「今やる」とは、大きなことを一度に完璧にすることではなく、小さくても今日始めることなのだと。そう思うと、善いことは前よりずっと近くにあるように感じられました。

翌日、若者はヒレルに言いました。

「ぼく、昨日は少ししかできなかったけれど、やってみたら『今』の方がずっと大事だと分かりました」

ヒレルはうなずきました。

「大きな善い行いも、最初は小さな『今』から始まるのです」

親切も、勉強も、感謝も、あとでしようと思っているうちに遠のいてしまうことがあります。だからこそ、できる善いことは、少しでも今日始めるのがよいのです。

このお話について
この物語は、ユダヤの学びの伝統に伝わる話を、子ども向けにやさしい日本語で再話したものです。

もとになった話
タルムードに伝わる知恵の物語より

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