落とし物をどう扱うかは、その町の“信頼”をつくる。
みんなが正直だと、探したり疑ったりする手間(=信頼コスト)が減って、暮らしが楽になる。
※このお話は、タルムードで語られる「落とし物(紛失物)をどう扱うか」という教え(Bava Metzia などで知られる話題)を、子ども向けにやさしく物語にしたものです。
日曜日の朝。
町の広場では、小さな市(いち)が開かれていました。
パンの香り、果物の甘い匂い、布の色。
人の声が重なって、空気まで明るく見えます。
小学三年のユウタは、お母さんと買い物に来ていました。
ユウタの役目は「卵を割らずに持つこと」。
でも、ユウタの頭の中は卵よりも――広場の真ん中で回っている大道芸のほうに向いていました。
「ユウタ、手を離さないでね」
お母さんが言ったその瞬間。
ユウタの靴が、石につまずいて――
トン、と足がよろけました。
卵は無事。
でも、ユウタの足元に、何かが転がりました。
「……あれ?」
小さな布袋。
口がひもで結んであって、ずっしり重い。
中から、カチャ…と硬い音がしました。
ユウタは周りを見回しました。
けれど、だれも気づいていないみたいです。
大道芸の輪は笑い声でいっぱい。
お店の人は忙しそう。
ユウタは、布袋を持ち上げました。
(これ……お金?)
心臓がどくんと鳴りました。
(もし本当にお金なら……)
(拾ったぼくのもの? それとも……)
そのとき、お母さんが戻ってきました。
「どうしたの?」
ユウタは布袋を見せました。
「落ちてた」
お母さんの顔が少し真剣になります。
「それは、大事なものかもしれないね」
「まずは、交番……じゃなくて、この町の“案内所”に届けよう」
広場の端に、小さな木の小屋があります。
そこは、迷子や落とし物を預かる案内所。
“困ったらここへ”という場所でした。
案内所には、年配の係の人がいました。
穏やかな目の、ゆっくり話す人です。
「どうしましたか?」
ユウタは布袋を差し出しました。
「落ちてたんです」
係の人は布袋を受け取り、すぐに中を開けませんでした。
代わりに、ユウタに聞きました。
「どこで見つけましたか?」
「広場の真ん中あたり」
「持ち主らしい人は近くに?」
「いなかった」
係の人はうなずきました。
「ありがとう。とても大切なことをしてくれましたね」
ユウタは、少し照れました。
でも、胸の奥はまだソワソワしています。
(持ち主が見つからなかったらどうなるの?)
(この袋は……どうなる?)
係の人は、机の上に紙を置きました。
「落とし物が出たら、持ち主が探しに来ます」
「そのとき、すぐ返せるように、“特徴”を記録しておくんです」
「特徴?」
係の人は、布袋の外側をゆっくり見ました。
「色は?」
「うすい茶色」
「ひもは?」
「青」
「袋の口に、何か印はありますか?」
ユウタはよく見ると、小さな縫い目で“星”みたいな印がありました。
「星のしるしがある」
係の人は、そこまで書いて、布袋を閉じました。
中身はまだ見ません。
ユウタは驚きました。
「中、見ないの?」
係の人は笑いました。
「見ないほうがいいこともあります」
「中を見てしまうと、あとで『いくら入ってた?』って言われたとき、争いになる」
「だから、まずは“外からわかること”だけを記録する」
ユウタは、なるほどと思いました。
(争いを防ぐためか)
案内所を出た帰り道。
ユウタはお母さんに聞きました。
「ねえ、どうして落とし物って、こんなに面倒なの?」
「拾った人が持ってても、誰も分からないのに」
お母さんは少し考えてから言いました。
「面倒なのはね、“信頼がなくなる”ともっと大変になるからだよ」
「信頼がなくなる?」
お母さんは、広場の八百屋さんを指さしました。
「もしこの町で、落とし物が戻ってこない町だったらどうなると思う?」
ユウタは想像しました。
お金を落としたら終わり。
みんな疑い合う。
「誰かが取った」
「きっとあの人だ」
そんな空気になる。
お母さんは続けました。
「そうなると、みんなは“守り”にお金と時間を使う」
「鍵を増やして、袋を二重にして、監視したり」
「お店の人も、お客さんを疑うから、買い物も楽しくなくなる」
ユウタは口を開けました。
「それって、すごくイヤだ」
「そう。だから、正直に届ける人が増えるほど、町は楽になる」
「探す手間も、疑う手間も減る」
「これをね、大人は“信頼コスト”って言ったりするんだ」
ユウタはむずかしい言葉に首をかしげました。
お母さんはやさしく言い換えます。
「つまりね、疑ったり探したりする“ムダな手間”だよ」
「正直な人が多い町は、そのムダが少ない」
ユウタは、なんだか自分が良いことをした気分になりました。
(ぼくが届けたから、ムダが減った?)
その日の夕方。
案内所から電話がありました。
布袋の持ち主が見つかった、という連絡です。
ユウタとお母さんが案内所に行くと、そこには若い女性がいました。
顔が青く、何度も何度も係の人に頭を下げています。
「本当にありがとうございます……」
女性の声は震えていました。
「今日、家の家賃を払うためのお金で……なくしたらどうしようって……」
ユウタは、息をのみました。
(家賃……)
(なくしたら、大変だったんだ)
係の人は女性に質問しました。
「袋の色は?」
「うすい茶色です」
「ひもは?」
「青です」
「印は?」
女性は目を閉じて言いました。
「星の縫い目があります」
係の人はうなずきました。
そして布袋を渡しました。
女性はぎゅっと抱きしめて、涙ぐみました。
「……戻ってきた」
そしてユウタに向き直り、深く頭を下げました。
「あなたが拾ってくれたの?」
ユウタは小さくうなずきました。
女性は言いました。
「あなたのおかげで、私は今日、安心して眠れます」
その言葉は、重くて、あたたかかった。
帰り道。
ユウタは、お母さんに言いました。
「ぼく、ちょっと誇らしい」
お母さんは笑いました。
「うん。信頼はね、こうやって作られるんだよ」
ユウタは、広場を見渡しました。
みんな、普通に買い物して、笑っている。
その“普通”の中に、見えない約束がある。
落としたら戻ってくるかもしれない、という希望。
(信頼って、お金みたいに目に見えないけど)
(町を支えてるんだ)
ユウタは、心の中で小さく決めました。
次に何かを拾っても、同じように届けよう。
それが、町を少しだけ楽にするなら。
1) ユウタが布袋を届けなかったら、どんなことが起きたと思う?
2) 「正直な人が多い町」は、どんなところが住みやすい?
3) もし君が落とし物をしたら、どんな気持ちになる? そのとき、どんな人が増えると安心?



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